2012年01月11日

【ここらあで謎解きぃゆうのはどうどっしゃろ?】 第二回:アイツとアイツのややこしい別れ話 (中編)

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「もう一人のアイツ」との相違点・共通点には何があったか?

二十四歳で『三教指帰』を書いていたころの空海は、
実はまだ仏門に入っておらず、在俗にして諸学を修めているところであった。

これは、空海の出家に対する周囲の猛烈な反対の声を受けた選択である。
彼の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)は、なんと桓武天皇の侍講であった。
そんな伯父に儒学を学んだ空海は、大学に入るとたちまちその才能を見出される。

すると大足としては当然この賢い甥っ子をエリート街道に乗せたいところである。
彼は空海を政府の役人にする腹であった。

一方最澄は、十二歳で父母にすすめられて仏門に入り、
十八歳のころには旧仏教に絶縁状をたたきつけて比叡山に入っている。

このあたりの、いわば家庭の雰囲気のようなものが両者でははっきりと違っていた。
 
ここで大変興味深いことには、最澄は旧仏教と自らを断ち切るために比叡山に入り、
空海は著作によってこれまでの学問に対する絶縁を示している。

『三教指帰』は儒教や道教と自分とを、思想的に断ち切るために書かれたものであった。
人が何かと決別する際に放たれるエネルギーというのは凄まじいものだ。
 
さて、空海が仏門に入るのは齢三十一のときであった。
最澄は空海の七つ年上なので、このころ三十八歳である。
彼はすでに比叡山に庵をかまえ、新しい仏教の構成を練っていた。


出国・帰国のエピソード
 
空海が仏門に入った年、二人は一緒に唐に渡ることになる。

最澄は第二船に乗り込んだが、
早くから儒学を学び天才的な語学力を身につけていた空海は
第一船の遣唐大使の船に乗ることになった。

最澄は語学ができなかった。
現在でも、読むことはできても話せない学者が多いようであるが、
これは最澄以来の日本の特徴かも知れない。
 
宗派の異なる二人は、唐に渡った後は別々に真言と天台の師に学ぶことになる。

実はこの二人、本来二十年と定められた留学期間をそれぞれ一、二年で切り上げて帰国している。
いい意味でも悪い意味でも、たいした僧である。

それでも二人の在期にずれが生じた謎については、やはり語学の問題があるのではないだろうか。
言葉の壁をものともしない空海と、通訳なしでは話せない最澄とでは、
その地における居心地も違うだろう。
 
最澄は翌年の6月にはすでに帰国している。
空海は最澄より一年長く滞在し、書物や経巻など膨大な量の資料を日本に持ち帰った。

そして空海が持ち帰ったこの資料こそが、二人の仲をややこしくしてしまった。

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京都のスーパーヒーローとして、あくまで空海メインでここまで続けてきた。
このような扱い方では最澄ファンに憎まれるかも知れない。
彼もまた天台宗の開祖として立派な僧である。

また、これだけの高僧2人が同時代に生きていたことに興奮するのは僕だけではないはずだ。

(次回へつづく) 
                                        

                      
絵と文 川ア 貴彦 [PROFILE]   
   
   

2012年01月25日

【ここらあで謎解きぃゆうのはどうどっしゃろ?】 第二回:アイツとアイツのややこしい別れ話 (後編)

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アプローチは最澄から?

帰国後の空海は、上京して高雄山寺に身を置いた。
これからしばらくの間、空海と最澄は親密な関係を保っていた。
 
蜜月の糸口を開いたのは、最澄が空海のもたらした真言宗教に強い関心を示し、
彼が唐より持ち帰った膨大な資料を見たいと申し出たことによった。
 
というのも、最澄が持ち帰ったものと
空海の持ち帰ったものとでは比較にならなかったのである。
(しかし、そもそもこの時代にあっての渡唐とは「命」を賭けた行動であった
 ということを忘れてはならない。)
 
留学の成果においても、学究の才能においても、まさに後の雁が先になってしまった。
最澄はそれを素直に認めていたのであろう。アイツは謙虚である。
彼は空海より七つも年上でありながら、仏を前にしてその高下など問題にしていなかった。
この点は最澄という人間のパーソナリティにおいてとても魅力的であり、
「実るほどに頭を垂れる稲穂」のたとえにも通ずるものがある。

空海もそんな最澄のこころを汲み、本などの貸出について快諾している。
(快諾と書いたが、世間では、最澄があまりに本を借りるのに熱心なため
 「真言の奥義を盗むつもりではないか」と疑うむきもあったという。)

しかも最澄は、弟子の泰範を誘って高雄山寺へ行くと空海の教えを聞き、
そこで灌頂(かんじょう)を受けて員外の弟子に加えてもらってさえいる。
前編でまとめた例の受戒儀式である。
 
空海のところへ出かける際、最澄らは砂糖や海藻といった種々の手土産を携えていたという。
 
ところが、やがて両者の間に気まずい空気が流れるようになる。

最澄とともに空海のところへ通った弟子の泰範が、そのまま空海のもとにとどまり、
彼のもとに帰ってこないという事件が起こったのである。

ここまでの2行で充分に気の毒であるが、われわれは事件の詳細に触れねばならない。
以下をもってようやく謎が解かれるのだ。


おとこ最澄、空海にも弟子にもフラれてしまう。

最澄は泰範に対し何度も帰参を促すが、結局その愛弟子は空海のもとへ走ることになる。
最澄は泰範を大変信頼していただけに、すっかり落ち込んでしまった。
後に荒ぶるのも無理はない。

一方で空海は、最澄が借り出している経典のたぐいをしきりに催促するようになった。
そして、いよいよ決定的なことには、空海が泰範に代わって最澄に返書を送ったのである。
(ここで空海はキッパリと「最澄とは共に行動できない」という旨を申し送っている。)
 
もはや心理的ファルコンパンチともいえるこのような仕打ちに見舞われた最澄の精神は、
脆く崩壊したことだろう。

俗界を離れた場所でもこうした事件があるとなれば、血も涙もない世の中である。
このとき最澄五十歳、空海四十三歳であった。
 
それから後の二人は、別々の道を歩いていった。
年長の最澄はいよいよかたくなになって奈良の南都六宗を攻撃し、
かつて東大寺で受けた二百五十の具足戒をも返上したという。
 
空海の方は、不必要な摩擦を起こさぬようにとの配慮からか、
奈良仏教とも適当な距離を保ちながら交流したようである。

詩にも文にも彼の才能は行くとして可ならざるはなく、
その書は当時の三筆として称えられるほどのものであった。

とすると、やはり彼は世に先んじて出た万能人であったといえる。
しかし最澄に比べると、全く融通無碍のところがあり、現実に妥協するところがあったようだ。
 
空海の人間関係における「ふてこさ」を
「たくましい」ととるか「むごたらしい」ととるかはあなたに任せるとして、
アイツとアイツの間には、同時期に唐に渡ることになった運命的出会いをはじめ、
蜜月時代から劇的な別れに至るまで、こんなにも人間くさいドラマがあった。

そしてそれを面白いと感じてしまった筆者の心の卑しさから、この回の謎解きがすすめられた。
しばしば流言に「腹黒い」とされる京都人の性格的特徴は、
実は京都人空海の行動に由来していたのかもしれない。

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絵と文 川ア 貴彦 [PROFILE]   
 


参考
奈良本辰也ほか『京都百話』1985
奈良本辰也『史都散策 京』1989