2012年01月25日

【ここらあで謎解きぃゆうのはどうどっしゃろ?】 第二回:アイツとアイツのややこしい別れ話 (後編)

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アプローチは最澄から?

帰国後の空海は、上京して高雄山寺に身を置いた。
これからしばらくの間、空海と最澄は親密な関係を保っていた。
 
蜜月の糸口を開いたのは、最澄が空海のもたらした真言宗教に強い関心を示し、
彼が唐より持ち帰った膨大な資料を見たいと申し出たことによった。
 
というのも、最澄が持ち帰ったものと
空海の持ち帰ったものとでは比較にならなかったのである。
(しかし、そもそもこの時代にあっての渡唐とは「命」を賭けた行動であった
 ということを忘れてはならない。)
 
留学の成果においても、学究の才能においても、まさに後の雁が先になってしまった。
最澄はそれを素直に認めていたのであろう。アイツは謙虚である。
彼は空海より七つも年上でありながら、仏を前にしてその高下など問題にしていなかった。
この点は最澄という人間のパーソナリティにおいてとても魅力的であり、
「実るほどに頭を垂れる稲穂」のたとえにも通ずるものがある。

空海もそんな最澄のこころを汲み、本などの貸出について快諾している。
(快諾と書いたが、世間では、最澄があまりに本を借りるのに熱心なため
 「真言の奥義を盗むつもりではないか」と疑うむきもあったという。)

しかも最澄は、弟子の泰範を誘って高雄山寺へ行くと空海の教えを聞き、
そこで灌頂(かんじょう)を受けて員外の弟子に加えてもらってさえいる。
前編でまとめた例の受戒儀式である。
 
空海のところへ出かける際、最澄らは砂糖や海藻といった種々の手土産を携えていたという。
 
ところが、やがて両者の間に気まずい空気が流れるようになる。

最澄とともに空海のところへ通った弟子の泰範が、そのまま空海のもとにとどまり、
彼のもとに帰ってこないという事件が起こったのである。

ここまでの2行で充分に気の毒であるが、われわれは事件の詳細に触れねばならない。
以下をもってようやく謎が解かれるのだ。


おとこ最澄、空海にも弟子にもフラれてしまう。

最澄は泰範に対し何度も帰参を促すが、結局その愛弟子は空海のもとへ走ることになる。
最澄は泰範を大変信頼していただけに、すっかり落ち込んでしまった。
後に荒ぶるのも無理はない。

一方で空海は、最澄が借り出している経典のたぐいをしきりに催促するようになった。
そして、いよいよ決定的なことには、空海が泰範に代わって最澄に返書を送ったのである。
(ここで空海はキッパリと「最澄とは共に行動できない」という旨を申し送っている。)
 
もはや心理的ファルコンパンチともいえるこのような仕打ちに見舞われた最澄の精神は、
脆く崩壊したことだろう。

俗界を離れた場所でもこうした事件があるとなれば、血も涙もない世の中である。
このとき最澄五十歳、空海四十三歳であった。
 
それから後の二人は、別々の道を歩いていった。
年長の最澄はいよいよかたくなになって奈良の南都六宗を攻撃し、
かつて東大寺で受けた二百五十の具足戒をも返上したという。
 
空海の方は、不必要な摩擦を起こさぬようにとの配慮からか、
奈良仏教とも適当な距離を保ちながら交流したようである。

詩にも文にも彼の才能は行くとして可ならざるはなく、
その書は当時の三筆として称えられるほどのものであった。

とすると、やはり彼は世に先んじて出た万能人であったといえる。
しかし最澄に比べると、全く融通無碍のところがあり、現実に妥協するところがあったようだ。
 
空海の人間関係における「ふてこさ」を
「たくましい」ととるか「むごたらしい」ととるかはあなたに任せるとして、
アイツとアイツの間には、同時期に唐に渡ることになった運命的出会いをはじめ、
蜜月時代から劇的な別れに至るまで、こんなにも人間くさいドラマがあった。

そしてそれを面白いと感じてしまった筆者の心の卑しさから、この回の謎解きがすすめられた。
しばしば流言に「腹黒い」とされる京都人の性格的特徴は、
実は京都人空海の行動に由来していたのかもしれない。

第五稿イラスト.png
                                        

                      
絵と文 川ア 貴彦 [PROFILE]   
 


参考
奈良本辰也ほか『京都百話』1985
奈良本辰也『史都散策 京』1989  
   

   
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